ばねの言い分

   
   

 「ばねをかけている歯がぐらぐらしてきて痛くなりました」診療室のいすに腰掛けるやいなや、こうおっしゃる患者さんがお見えになりました。
  その患者さんは「どうかされましたか」という先生の問いかけに、「入れ歯を入れるようになってから、ばねをかけた歯から順々に悪くなっていって、一本また一本と抜かなければいけなくなり、そのたびにどんどん大きな入れ歯になっていくの」と答えながら憂鬱そうな顔を見せています。「ばねをかけた歯は負担が重くなりますからね、困りましたね」先生のつぶやきが聞こえます。
  ちょっと待ってください。部分入れ歯のばねは、入れ歯がおちたり外れたりしないように、本体と残っている歯をつなぎとめていてくれる、入れ歯にはなくてはならない重要なパーツです。そのばねをかけたせいで歯が痛んでしまうことがあるのでしょうか。今回は意外と知られていない入れ歯のばねの特性についてご説明し、ばねの言い分を聞いてみましょう。
  数本の歯を抜いた後に入れる部分入れ歯は、咀嚼(そしゃく)(食事をする)・嚥下(えんげ)(飲み込む)・発音といったさまざまな機能時に入れ歯にかかる力(機能圧)を負担しなければなりません。機能圧を負担してくれる場所は二ヶ所、ひとつはばねをかけている歯、もうひとつは入れ歯がのっている歯ぐき(顎堤(がくてい)粘膜)です。
  ばねをかけている歯の側の要因をもう少し詳しくお話しすると、歯はあごの骨の中におさまっているのですが、歯とあごの骨が直接くっついているわけではありません。両者の間には厚さ0.25mmほどの歯根膜という緩衝作用的な役割を持つ弾力のある組織があり、歯にかかるさまざまな外力を感知し、歯を守ってくれています。もし歯根膜がなければ、奥歯をぐっとかみしめることの多いスポーツ選手などは、歯にかかる過大な外力を痛みとして認識することができず、あっという間に歯はボロボロになってしまうでしょう。
  この歯根膜の機能圧に対する負担能力にはひとつの大きな特徴があります。それは歯の植立方向、すなわち通常かみ合わせたときに加わる垂直方向の力に対する負担能力を1とすると、歯を横から押す水平方向の力に対する負担能力は8分の1程度しかないということです。歯は垂直方向からの力に対しては比較的強いのですが、横からのゆさぶりにはとても弱いものなのです。
  部分入れ歯は欠損した歯の部位や本数によってさまざまな形態をとりますが、最も多く見られる症例としては、下のあごの奥歯(大臼歯)が2本欠損し、その手前の少し小さめの臼歯(小臼歯)にばねをかけるパターンがあげられます。そこでばねをかける歯として下のあごの小臼歯を選択し、さらにお話を進めてまいりましょう。
  健康な歯ぐきの状態における、小臼歯の歯根膜の側方圧に対する限界変位量(歯に加わる横からの揺さぶる力に対してどれくらい抵抗できるかということ)は、約0.15mmです。いいかえると0.15mm以内の揺さぶりで収まっているのなら、歯がぐらぐらしたり痛くなったりすることはないということです。ではこの歯にばねをかけることによって、どのような方向にどれくらいの量のゆさぶりが生じてくるのでしょう。
  ばねをかけた歯に加わる力は大きく分けて二つあります。一つは入れ歯の人工の歯の部分に加わる様々な力によって入れ歯が沈下し、同時に直結されているばねによってその沈み込む量だけ、歯に対して欠損側方向(歯が抜けてしまっている側)へ引き倒される力が働きます。この量は顎堤粘膜の被圧縮量(歯ぐきにどれくらい弾力性があるか)によって左右され、その平均は約0.3mmといわれています。つまり計算上は、部分入れ歯を入れて物をかむたびに、ばねをかけた歯は0.3mm揺さぶられていることになり、これは限界変位量の約2倍の値となります。
  もうひとつの力は、入れ歯を出し入れするときに歯にかかる力です。ばねは、入れ歯が口の中でむやみにはずれたりしないよう支える役目を持っています。この入れ歯を維持する力は、入れ歯を着脱する方向に対し、ばねをかける歯に存在するアンダーカットを利用しています。適切なアンダーカットの取れる位置にばねの先端を設計することにより、装着された入れ歯が外れようとする力に対し、文字通りばねの働きで抵抗してくれるわけです。一般的によく用いられるばねの場合、入れ歯を維持するためには0.25〜0.5mmのアンダーカット量が必要で、それより少ないと入れ歯が安定せずすぐに外れてしまいます。また、通常アンダーカットはばねをかける歯の頬側(きょうそく)(ほっぺた側)にとります。その結果、入れ歯を入れるときには、ばねの細く伸びたアームがその歯の頬側面の最もふくらんでいる部位を越えてアンダーカット域に入るまで、また入れ歯をはずすときにはアンダーカット域から最もふくらんでいる部位を越えるまでの間、アームがその歯を内側(舌の方向)へ押すことになります。内側へゆさぶる量は設定したアンダーカット量と同じですから、0.25〜0.5mmとなり、これも生理的な限界変位量を超えています。
  つまり、ばねをかけられた歯は、入れ歯を出し入れしたり、いろいろな機能圧が加わるたびに前後方向や左右方向に常に揺さぶり続けられることになり、これが長期間続けば、歯がぐらぐらしてきたり痛みが出る大きな要因となるわけです。
  今までお話してきたことは、あくまで理論的な数値を基にして作図的に算出するとこうなる、ということです。もちろん実際の入れ歯の設計には、ばねをかける歯に対しできるだけ負担がかからないようにさまざまな工夫が盛り込まれます。その工夫の中で、患者さんが入れ歯に対して訴える不快症状と関連の深いものをご紹介いたしましょう。
  ひとつ目は、ばねをかけた歯の歯根膜の限界変位量と顎堤粘膜の被圧縮量の差を補うために、入れ歯の面積はできるだけ広くとってやるという原則です。面積を広くすれば、それだけ入れ歯にかかる機能圧を顎堤粘膜に分散することができるため、結果的にばねがかかっている歯にかかる負担が減少します。もちろん入れ歯を口の中に入れた際の感覚的な問題もあり、どこまでも大きくできるわけではありません。ただ「大きい入れ歯はいやだからできるだけ小さくして下さい」というご希望に対し、不必要に小さくしてしまうのは、かえってばねをかけている歯にはよくないのです。
  二つ目は、ばねを出し入れする際に歯を揺さぶってしまうことに対する対処です。ばねはその特性上どうしても歯を側方に押してしまいます。ですからばねのデザインを決める際は、側方に押す力が加わっている間、その力に対して拮抗できるような部位を設計して、歯を守ってやる必要が出てきます。そしてもうひとつ重要なことは、じゅうぶんに拮抗させる形態を設計するためには、ばねをかける歯自身がそれに適した形態をとっていないと設計が難しいということです。
  ところが、ばねをかけようとする歯の形態は百人百様です。そこで、入れ歯の設計をする際には、必要であれば、ばねをかける歯の形態を修正したり、時には冠をかぶせることによって適切な形態を付与することもあります。「できるだけ歯を削ってほしくない」とおっしゃるお気持ちはよくわかりますが、削らずに無理にばねを設計することで、かえってその歯の寿命を短くすることもあるのです。
  ここまで、部分入れ歯のばねの特性についてお話しをさせていただきました。 ばねは、部分入れ歯にとってなくてはならない、いわば劇の主役的存在として見られがちです。しかし主役一人で劇ができるわけではありません。もしばねが、入れ歯のほかの構成要素のことを考えずに独り歩きを始めたら、入れ歯としての本来の役目を果たすどころか、かかっている歯をだめにしたり、歯ぐきに傷を作ってしまう原因となってしまうでしょう。
  長期間機能的に問題のない部分入れ歯は、その患者さんの口の中の状態を十分に診査し、よい入れ歯に必要な様々な因子をすべてもらすことなく設計に盛り込むことによってはじめてできあがります。ばねもその数多い因子のひとつに過ぎないのです。患者さんは不快だなと感じることもあるかもしれませんが、前処置としての歯の形態修整・入れ歯の大きさ・ばねのデザイン・ばねをかける歯の数や配置など、みなそれぞれ重要な意味を持っているのです。ぜひばねがこの持てる能力を最大限に発揮できるよう、ばねに対するご理解を深めていただきたいと思います。
                                                         宮本績輔  (宮本歯科医院)